ソウルの都心、そのど真ん中で階段をいくつか下りると、突然クルマの音が遠のく。地面から4~5m下、水が西から東へと流れ、頭上には乙支路(ウルチロ)のオフィス窓が通り過ぎていく。清渓川はソウルでいちばん不思議な散歩道だ。朝鮮王朝の下水路であり、バラック街であり、コンクリートの道路であり、そしていまは、ふたたび水の道である。22の橋を順にたどれば、その四つの時間が順々に足もとを通り抜けていく。

まず結論から

  • 復元区間は5.84km、橋は22本。最初の橋が茅廛橋(モジョンギョ)、最後が古山子橋(コサンジャギョ)。休まず歩けば1時間半、じっくり見れば3時間。
  • 歴史は上流に集中している。広通橋の貞陵石造物、186mにおよぶ正祖陵行班次図の壁画、水標橋、五間水門の遺構まで、手前2.7kmのなかにすべて収まっている。
  • 時間がなければ清渓広場から五間水橋までで十分。終わる場所が広蔵市場と東大門だから、そのまま次の予定に流れていける。
5.84km
復元区間の長さ(総延長は8.12km)
22
復元区間の橋の数(歩道橋7+車道橋15)
1412
太宗の開川工事——人夫52,800人を動員
2,202万人
2025年の訪問者数(1日平均約6万人)

清渓川はもともと何だったのか

漢陽(ハニャン、現在のソウル)は四方を山に囲まれた盆地である。水が都の真ん中に集まるほかない地形であり、朝鮮が都を定める以前から、すでに水の道は刻まれていた。問題は、その水が季節に著しく左右されたことだ。春と秋には底をさらけ出す乾川(ケンチョン、乾いた川)だったかと思えば、夏に少しでも雨が降ればすぐに溢れ、家々を浸し橋を押し流した。

そこで太宗は即位直後から川底を掘り、堤を築きはじめた。決定的な工事となったのは、1411年12月に臨時機関開川都監(ケチョンドガム)を設置し、翌年1月15日からわずか一か月にわたって敢行された大土木工事である。投入された人夫は52,800人。このとき両岸を石で固め、広通橋と恵政橋を石橋に架け替えた。「川を拓く」という意味の普通名詞だった**開川(ケチョン)**が、この工事を機にこの河川の固有名詞となった。

世宗が下した結論——明堂水か、下水路か

風水的に見れば、清渓川は都の真ん中を流れる内水(ネス)である以上つねに清らかであるべきだという主張と、これほど多くの人が住む場所では、汚れを洗い流す河川がどうしても必要だという主張が対立した。世宗は後者を選んだ。その決断によって、清渓川はその後500年にわたり漢陽の生活河川かつ下水路として機能することになる。1441年には馬廛橋の西側の水中に目盛りを刻んだ石柱を立てて水位を測った。それが水標(スピョ)であり、水標橋の名はここに由来する。


なぜ覆い、なぜ再び開いたのか

解放と戦争を経て、清渓川はソウルで最も見せたくない場所になった。避難民たちは川辺に、半分は地上、半分は水上にまたがるバラックを建て、生活排水がそのまま流れた。1950年代半ばの清渓川は、都市のスラムそのものだった。

もっとも安く早い解決策は、覆ってしまうことだった。1955年に広通橋上流136mを覆ったのを皮切りに、1958年から本格的な覆蓋(ふくがい)が進み、1977年には新踏鉄橋まで全区間がコンクリートの下に消えた。その上を1971年、清渓高架道路が走りはじめる。広橋から馬場洞まで5.6km、幅16m。当時としては近代化の象徴であり、実際ソウルの誇りだった。

それから30年が経つと、同じ構造物が正反対に読まれはじめた。高架下は都心で最も暗く騒がしい場所となり、老朽化した橋脚の安全問題がたびたび指摘された。2003年6月30日、高架道路が閉鎖され、その翌日には復元工事が着工された。2年3か月後の2005年10月、水がふたたび流れた。

🕰️ 清渓川600年年表

時期何があったか
1411〜1412年太宗、開川都監を設置し一か月の大工事。広通橋が石橋になる
1441年世宗、馬廛橋の西側に水標を設置——朝鮮式水位計
1760年英祖による大規模な浚渫。以後、定期的な浚渫が制度化される
1955年広通橋上流136mの覆蓋が始まる
1958〜1977年広橋から新踏鉄橋まで全区間の覆蓋が完了
1971年清渓高架道路が完成——広橋〜馬場洞5.6km
2003年6月30日清渓高架道路が閉鎖、翌日復元工事に着工
2005年10月復元完了。5.84km区間に水が再び流れる

いま流れている水はどこから来るのか

自然の流量は残っていない。漢江から取水して浄化した水1日4万トンと、地下鉄や電力施設から出る地下水2万トンを上流から放流している。アブラハヤやカワムツが棲める水質だが、大腸菌や濁度の基準が飲料水には及ばず、飲むことはできない。復元のあり方をめぐって「自然河川ではなく巨大な水槽だ」という批判が長くつきまとう理由でもある。


どこから始めて、どこまで行けるのか

スタートは光化門のとなり、清渓広場。ゴールは城東区の古山子橋だ。広場から古山子橋までが約5.5km。遊歩道自体はそこから300mほど先、新踏鉄橋地点で復元区間が終わる。ここで清渓川は中浪川と合流し、中浪川はさらに下って漢江へと注ぐ。

肝心なのはどこからでも切り上げられることだ。出入り口は65か所(階段42、スロープ21、エレベーター2)もあり、水路上空には地下鉄1・2・3・4・5・6号線がひっきりなしに交差する。橋ひとつがそのまま地上へ上がる出口だと思えばいい。

🚶 区間別の目安——時間に合わせて選ぶ

区間距離歩行時間性格
清渓広場〜観水橋約1.3km20分遺跡と壁画が最も密集する区間
清渓広場〜五間水橋約2.7km40分歴史+市場。最も無難な半日コース
五間水橋〜古山子橋約2.6km40分人が減り、水音が大きくなる区間
清渓広場〜新踏鉄橋5.84km1時間30分完全制覇。写真を撮りながらなら3時間

方角はかならず上流から下流へ

西の清渓広場から東へ向かって歩けば水の流れと同じ方向になり、見どころも時代順に現れる。逆向きに歩くと、朝鮮時代が最後に出てくる妙な順序になってしまう。地下鉄5号線光化門駅5番出口から100m、徒歩2分で広場だ。

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上流——清渓広場から水標橋まで(1.1km)

水が始まる場所だ。正確には、水が始まっているように見える場所。2段の滝が4m下へと落ちていき、ここから川が始まると宣言している。広場の片隅には、高さ20m、重さ9トンの赤と青の螺旋状オブジェスプリングが立つ。クレス・オルデンバーグとコシャ・ファン・ブルッヘンによる2006年の作品だが、設置の経緯も形状も、いまなお賛否が分かれる。ソウルの市民に尋ねると「サザエ」という答えが最も多く返ってくる。

💧
清渓広場・スプリング
2段の滝と20mの螺旋オブジェ。夏の夕方、階段は腰を下ろす人で埋まる。
🪨
広通橋
最も短い橋(12m)で、最も古い物語を宿す橋。橋台に王妃の墓の石造物が埋まっている。
🎨
正祖陵行班次図 壁画
広通橋と長通橋のあいだ186m。白磁の陶板約5,000枚に1795年の行列を焼き付けた。
📏
水標橋
名のみ残り、オリジナルはない橋。本物の水標橋は奨忠壇公園に立っている。

広通橋——王妃の墓石で造られた橋

2番目の橋、広通橋は12m。22本のなかで最も短い。ところが橋の下に降りて橋台を見ると、話はまったく別になる。精緻に彫られた石材が混ざり込み、その一部はあきらかに上下逆さまに嵌め込まれている。

1410年、大雨で広通橋が押し流されると、太宗は太祖の継妃である神徳王后・姜氏の墓だった貞陵の旧跡から屏風石を持ち出し、橋を架け直させた。神徳王后は、太宗に王子の乱を起こさせた政敵の母だった。王妃の墓を守っていた石が、都で最も人に踏まれる場所へと貶められたのである。朝鮮の政治が石ひとつにそのまま残っているわけだが、面白いのはその後、広通橋が小正月のタリバプキ(橋渡り)で漢陽随一の人出を誇る橋になったことだ。

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正祖陵行班次図——歩きながら見る186mの絵巻

広通橋を過ぎ、長通橋へ向かって歩くと、左手の壁がまるごと絵になっている。1795年、正祖が母・恵慶宮洪氏をともない、父・思悼世子の墓がある華城へと向かった行列の光景。原画を白磁の陶板に焼き付けて壁に貼ったもので、その長さは186m。馬と駕籠、楽隊、旗がどこまでも続き、歩く速度と行列の速度が不思議と重なる。絵全体を見るには、対岸の歩道ではなく、壁のある側にぴったり寄って歩かねばならない。

水標橋——オリジナルのない橋

6番目の橋には水標橋という名がつけられているが、朝鮮時代の水標橋はここにはない。1959年の覆蓋工事の際に解体され奨忠壇公園へ移設され、いまもそこにある。戻す計画がなかったわけではない。ただ、復元された川幅が23mなのに対し、水標橋の全長は26.5mで、物理的に収まらなかった。いま立っているのは、その場所を示す仮設の歩道橋だ。


中流——観水橋から五間水橋まで(1.5km)

ここから清渓川の性格が変わる。遺跡に代わって市場が主役になる。頭上を世運商街(セウンサンガ)がかすめ、芳山市場(パンサンシジャン)の包装材と香料のにおいが階段の上から降りてくる。夜明橋のあたりで上がれば広蔵市場、馬廛橋で出れば芳山市場と中部市場、もう少し歩けば平和市場と東大門だ。

柳橋——全泰壹(チョン・テイル)というもうひとつの名を持つ橋

13番目の橋は、もともと川辺の柳にちなんだ柳橋(ポドゥルタリ)である。2012年から全泰壹橋(チョンテイルギョ)という名を併せ持つ。1970年、この橋のそばの平和市場の前で、22歳の縫製工・全泰壹が労働基準法の遵守を求めて焼身自殺した。その事件は韓国労働運動の出発点となった。橋の上には彼の銅像があり、床には市民が名前を刻んでつくった銅板が敷かれている。観光コースとして案内される場所ではないが、清渓川が産業化の時代に何であったかを最も短く語る場所だ。

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五間水橋——城壁の下、五つの水門

14番目の橋のそばには、石造りのアーチ構造が再現されている。朝鮮時代、漢陽都城が清渓川を横切る地点で、水を流し出すために開けられた五つの水門、五間水門(オガンスムン)だ。城壁に穴を穿ち、水は通すが人は阻まねばならない。ゆえに鉄格子が嵌められ、その格子をこじ開けて都城に出入りした人物たちの話が実録にたびたび登場する。ここで階段を上がれば、すぐ興仁之門(フンインジムン)とDDPだ。

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ここで切り上げるなら

五間水橋は全長5.84kmのうち2.86km地点、ちょうど折り返しあたりだ。上がれば東大門・広蔵市場・DDPが半径300m圏内にあり、夕方からの予定に自然に流れ込める。完全制覇が目的でなければ、ここが最良の終着点である。


下流——清らか橋から古山子橋まで(2.6km)

五間水橋を過ぎると、人影がめっきり減り、橋の間隔が開く。上流では150〜200mおきに現れた橋が、ここでは300〜440mずつ離れている。水音が大きくなり、遊歩道の幅が広がり、ジョギングする人と自転車が増える。観光地から、まちの川へと移り変わる区間だ。

🏘️ 下流で出会うもの

地点何か備考
存置橋脚撤去せずに残された清渓高架道路の橋脚3基庇雨堂橋と舞鶴橋のあいだ。道路が川の上にあったことの物的証拠
バラックテーマゾーン1950〜70年代の川辺バラックを再現した空間10:00〜18:00、月曜休館
清渓川博物館復元前後を丸ごと扱う常設展示09:00〜18:00、月曜休館、無料
庇雨堂橋46.6m、22本中もっとも長い橋橋の下にトンネル噴水がある
二水橋貞陵川が合流する地点の歩道橋22本のうち最も早く開通した橋(2004年5月)

清渓川博物館は復元事業を美化だけしていない。バラック時代の生活道具、高架道路時代の図面、復元をめぐる反対意見までをあわせて展示する。手前の5kmを歩いたあとに入ると、いま通過してきたものがもう一度並べ直される感覚がある。順序としても申し分ない。二水橋と古山子橋のあいだにあるので、完全制覇すれば自然と最後にたどり着く。

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では、終わりはどこか

最後の橋は古山子橋。清渓広場から5.53km地点。名は大東輿地図をつくった金正浩の号に由来する。ここから307m進むと新踏鉄橋、復元区間の正式な終点だ。

とはいえ、道は途切れない。清渓川はまもなく中浪川と合流し、両河川の遊歩道と自転車道はそのままつながっている。ソウル市施設公団が案内する三つ目の散策コース「清渓休息道(チョンゲヒュシッキル)」も、二水橋から龍踏インターチェンジ橋までに設定されている。もっと歩きたいなら、中浪川沿いに漢江まで下ることも、逆方向に箭串橋(サルゴッタリ)方面へ抜けることもできる。ただしここから先は、もはや観光ではなくランニングとサイクリングの領域だ。

完全制覇後の帰り方: 古山子橋から最も近い駅は2号線龍頭駅(ヨンドゥヨク)新踏駅(シンダプヨク)。清渓川博物館の前から上がれば徒歩5分以内で着く。歩いてきた5.8kmを地下鉄ではわずか15分で戻る。

22の橋 全リスト——どのあたりで何に出会うか

🌉 清渓広場起点の累積距離と見どころ(距離はソウル市施設公団の図面に基づく合算)

#種別清渓広場からここで見るもの
1茅廛橋車道橋150m最初の橋。伝統的な大庁様式のアーチ橋
2広通橋歩道橋307m貞陵の石造物、逆さまに嵌まった彫刻。最も短い橋12m
3広橋車道橋460mデジタルキャンバスと霧の噴水
4長通橋歩道橋722mここまでが186mの正祖陵行班次図壁画
5三一橋車道橋898m乙支路の印刷横丁へ上がる地点
6水標橋歩道橋1,120m名のみ残る場所。オリジナルは奨忠壇公園
7観水橋車道橋1,320m清渓歴史道コースの終点
8世運橋車道橋1,582m頭上に世運商街。世運瀑布と枯死噴水
9培花洞橋車道橋1,815m宗廟と芳山市場のあいだ
10夜明橋歩道橋2,018m広蔵市場へ上がる橋
11馬廛橋車道橋2,186m世宗が水標を立てた場所。清渓活力道の出発点
12ナレ橋歩道橋2,408m翼の形をした歩道橋
13柳橋車道橋2,593m全泰壹橋。銅像と市民の銅板
14五間水橋車道橋2,862m五間水門の遺構。興仁之門とDDPへの入口
15清らか橋歩道橋3,107m船の形をした曲線の歩道橋
16茶山橋車道橋3,408m新堂洞方面。人が減り始める地点
17永渡橋車道橋3,719m端宗と定順王后が別れたと伝わる場所
18黄鶴橋車道橋4,132m新設洞ロータリーとソウル風物市場方面
19庇雨堂橋車道橋4,437m最も長い橋46.6m。トンネル噴水
20舞鶴橋車道橋4,781m前後に存置橋脚とバラックテーマゾーン
21二水橋歩道橋5,096m貞陵川合流点。清渓休息道の出発点
22古山子橋車道橋5,533m最後の橋。清渓川博物館

歩く前に知っておくとよいこと

  • 雨の日は避ける。河川の水位が上がると遊歩道が通行止めになる。夏の集中豪雨時にはサイレンが鳴り、ただちに避難しなければならない。
  • 5〜6月の下流にはカゲロウが多い。東洋カゲロウが大量発生する時期で、夕方の照明まわりは避けたほうが無難。刺しはしない。
  • 真夏の昼間は意外に暑い。河川だから涼しいと思いきや、日陰が多くない。7〜8月なら日没後が圧倒的に快適で、夜間照明もその時間に灯る。
  • トイレは橋の近く、地上にある。川沿いにはほとんどない。五間水橋、二水橋のあたりが比較的見つけやすい。
  • 飛び石は一方通行で。幅が狭く、鉢合わせるとどちらかが退かなければならない。雨の翌日は滑りやすい。

清渓川をどう見るか

復元から20年が過ぎたいまも、清渓川への評価は割れている。漢江の水を引き込んで流す人工河川であること、コンクリートの底の上につくられた景観であること、復元の過程で周辺の商人たちが経験したこと——これらはいまなお論争の的だ。その一方で、都心の気温を下げ、歩いて都市を横断する体験を取り戻したという評価もある。

旅する者にとって大切なのは、どちらが正しいかではない。この5.8kmが、ソウルという都市が自分自身をどう扱ってきたかを最も圧縮して見せている、という事実だ。王妃の墓石が橋の支えになり、その上にバラックが立ち、その上を高速道路が覆い、それをふたたび剥がして水を注ぐ。600年が階段数段ぶんの下に、層をなして積もっている。

データと出典

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