北村の韓屋路地を歩いていると、ひとつ妙なことに気づきます。家がどれも似すぎているのです。門の幅も、屋根の高さも、塀の長さもほぼ同じ家がずらりと並んでいる。朝鮮の両班たちがそれぞれ思い思いに建てた家なら、こうはなりません。
答えはシンプルです。これらの家は同じ時期に、同じ業者が、売るために建てた家だから。北村と益善洞の韓屋路地は、1920〜30年代に不動産開発業者が広い土地を買って細かく区切り、規格化された韓屋を並べて建てて分譲した住宅地なのです。今でいえばニュータウンの宅地開発に近いものでした。この記事では、その開発がどう進んだのか、韓国人にとってどんな意味があったのか、100年たった今2つの町がどう変わったのか、そして地元の人が実際に通う店はどこなのかを、順番に見ていきます。
まず結論から
- 北村・益善洞の韓屋路地は、1920〜30年代に建てられた「分譲住宅地」です。住宅経営会社が大きな区画を買って小さく分け、中小規模の韓屋をまとめて建てて売りました。
- 代表的な人物は、建陽社を設立した鄭世権です。益善洞166番地一帯は、彼が楼洞宮の跡地を買い取ってつくった韓屋団地です。
- いまの北村は観光時間に制限のある住宅地、益善洞は韓屋の商店街です。北村のレッドゾーンに観光客が入れるのは午前10時〜午後5時だけです。
北村韓屋村はいつ、誰がつくったの?
**いま北村に建つ韓屋の大半は、1920〜30年代に住宅経営会社が建てて売った家です。**北村(プクチョン)という町自体は、たしかに朝鮮時代から権勢ある家門が暮らした場所でした。ただ当時の北村は、大きなお屋敷が数軒、広い敷地を占めているような町で、今のように小さな韓屋がびっしり並ぶ路地ではありませんでした。
変化のきっかけは、1910年代以降の京城(キョンソン、植民地期のソウル)の住宅難です。ソウル韓屋ポータルは、「1912年以降の住宅難により、中大型区画の分割を通じて」新しいタイプの韓屋が建てられ、住宅の売買で利益を得ようとする住宅経営会社が大規模な区画や林野を買い集め、中小規模の韓屋を集団で建設したと説明しています。その代表が嘉会洞(カフェドン)11番地・31番地、三清洞(サムチョンドン)35番地、桂洞(ケドン)135番地。いま観光客が写真を撮る嘉会洞31番地の坂道も、まさにこうして生まれた団地です。
人が押し寄せるスピードも速いものでした。プレシアンの連載(〈植民都市に転落した京城〉)で引用された統計によると、京城の人口は1920年の約25万人から1930年に約35万人、1935年には約40万人へと増えています。仕事を求めて地方から上京した朝鮮人には、住む家がまるで足りませんでした。お屋敷1軒があった場所を10軒、20軒に分けて売る商売が儲かったのは、そのためです。
なぜ清渓川の北側だったのか
日本統治時代のソウルは、おおむね清渓川(チョンゲチョン)を境に分かれていました。日本人は南側の南村(今の明洞・忠武路・会賢洞一帯)に、朝鮮人は北側の北村に主に暮らしていたのです。1926年に朝鮮総督府庁舎が景福宮の中に建つと、積善洞・通義洞・孝子洞一帯に総督府の官舎が置かれるなど、日本の官公庁や官舎が清渓川の北側へ進出し始めました。朝鮮人の間では、暮らしの場が都城の外へ押し出されるのではという不安が広がります。北村で朝鮮人向けの韓屋を大量に供給することは、ビジネスであると同時に、こうした空気のなかで起きた出来事でもありました。
「建築王」鄭世権とはどんな人物?
**鄭世権(チョン・セグォン、1888〜1965)は、1920年に建陽社(コニャンサ)を設立し、ソウル各地に韓屋団地を建てて売った朝鮮人の不動産開発業者です。**慶尚南道固城(コソン)の出身で、面長を務めたのち1919年に京城へ上京し、翌年に建陽社を立ち上げました。ソウル大学のキム・ギョンミン教授は著書『建築王、京城をつくる』(2017年)で、建陽社を韓国初の総合不動産会社と評価しています。
事業規模は当時として圧倒的でした。韓国語版ウィキペディアが引く1929年の『京城便覧』には、建陽社が「毎年300戸余りの住宅を新築」していると記されています。ソウル市の広報紙〈ソウル&〉は、彼が都城の内外に建てた韓屋を約2,000軒とみています。北村の嘉会洞・三清洞、益善洞、鳳翼洞、恵化洞、城北洞、昌信洞、往十里、杏堂洞まで、彼の手がけた町はソウル全域に広がっています。
ただの商売人ではありませんでした。鄭世権は1930年代に朝鮮物産奨励会や新幹会の活動に加わり、楽園洞300番地に朝鮮物産奨励会館を、花洞129番地に朝鮮語学会の会館を建てて寄贈しています。その代償も大きなものでした。ソウル市によると、彼は朝鮮語学会事件で投獄されて激しい拷問を受け、財産を日本当局に奪われました。韓国語版ウィキペディアは、このときトゥクソムの土地3万5,000坪余りを奪われたと記しています。解放後も、事業がかつての勢いを取り戻すことはありませんでした。
益善洞韓屋村はどうやってできたの?
**益善洞(イクソンドン)166番地一帯は、鄭世権が旧宮家の跡地を買って一気に開発した韓屋団地です。**ソウル韓屋ポータルによると、鄭世権は哲宗の実父の私邸であり祠堂でもあった楼洞宮(ヌドングン)一帯を含む益善洞166番地・33番地・19番地などを買い取って小さな区画に分け、中小規模の韓屋を建てて売買やチョンセ(伝貰)で供給しました。
開発のスピードは、今の分譲マンションと変わりません。〈ソウル&〉によると、1929年まではこの場所に王族の子孫の私邸がありましたが、1935年にはすでに数十軒の韓屋がぎっしり建ち並んでいました。わずか6年で、ひとつの宮家がひとつの町に変わったわけです。
北村が複数の業者によって区画ごとに開発された町だとすれば、益善洞はひとりの業者がひとかたまりの土地を丸ごと開発した町。だから益善洞の路地は幅が狭く、家は小さく、形もより均一です。ソウル韓屋ポータルは、益善洞の韓屋はほとんどが30坪台以下で、50坪台は一部だけだと説明しています。
💡 実用メモ:路地で1920〜30年代の「分譲韓屋」を見分けるコツ
- 軒先のトタンの庇と雨樋 ― 雨水を中庭ではなく下水へ流すために付けたもの。朝鮮時代の韓屋にはなかった装置です。
- 横並びの門 ― 区画を分割して建てたので、門の間隔も幅もほぼ同じです。
- ガラス入りの建具 ― 大庁(テチョン)や部屋の前にガラス戸を付けた家が多く見られます。
- 外壁のタイル・レンガ装飾 ― 近代的な素材を取り入れた痕跡です。
韓国人にとって都市韓屋はどんな意味があった?
**都市韓屋は、韓国人が初めて手にした「近代的な住宅商品」でした。**朝鮮時代の家は、たいてい施主が大工を呼んで建てるものでした。1920〜30年代の都市韓屋は違います。業者が先に建て、人々は完成した家を選んで買うか、チョンセで入居しました。代金を分割で払う年賦・月賦という方式が登場したのもこの頃です。今の韓国人がマンションを分譲で買ってローンを返していくやり方の原型が、この路地にあるといえます。
家のかたちも近代化しました。広い庭と何棟もの建物からなる両班の屋敷を小さなロの字型の1棟に凝縮し、台所とトイレを新たに設計したのです。伝統の形式は守りつつ、都市の狭い土地と新しい暮らし方に合わせた折衷案でした。植民地都市で、朝鮮人の中間層が根を下ろしていった方法でもありました。
解放後、この意味はしばらく逆転します。1970年代からマンションが「暮らしやすい新しい家」の象徴になると、韓屋は寒くて不便な古い家として扱われるようになりました。北村は1983年に第4種美観地区に指定されて本格的な保存対象となったものの、1991年に高さ規制が10m・3階以下へ緩和されると、韓屋を壊して新しいビルを建てるケースが増えていきます。流れが再び変わったのは2001年、ソウル市が韓屋登録制をもとに「北村づくり(北村カクギ)」を始めてからです。韓屋はこのときから、壊すべき古い家ではなく、守るべき遺産として再評価されはじめました。
📅 2つの町の100年 ― 主な年表
| 年 | 北村 | 益善洞 |
|---|---|---|
| 1920 | 鄭世権、建陽社を設立 | 鄭世権、建陽社を設立 |
| 1920〜30年代 | 嘉会洞11・31番地、三清洞35番地、桂洞135番地などの大型区画を分割し韓屋団地を造成 | 楼洞宮一帯を買収、1935年頃に韓屋団地が完成 |
| 1983 | 第4種美観地区に指定 ― 本格的な保存政策が始まる | ― |
| 1991 | 高さ規制を緩和(10m・3階以下)― 韓屋の取り壊しが増加 | ― |
| 2001 | 韓屋登録制をもとに「北村づくり」開始 | ― |
| 2004 | ― | 都市環境整備区域に指定、再開発を推進 |
| 2014 | ― | 再開発推進委員会が解散、再開発は白紙に |
| 2018 | ― | 韓屋密集地域に指定、地区単位計画を策定 |
| 2024〜25 | 特別管理地域に指定、2025年3月からレッドゾーンで過料 | ― |
いまの北村と益善洞はどんな様子?
**100年前に同じやり方で生まれた2つの町は、いま正反対の問題を抱えています。**北村は人が暮らす町を守るために観光を制限し、益善洞は再開発ではなく商店街になる道を選びました。
北村 ― 観光客に時間制限を設けた住宅地
北村はいまも人が暮らす町です。ところが観光客が押し寄せるにつれ、住む人は減っていきました。韓国日報(2023年8月)の報道によると、北村のある嘉会洞・三清洞の住民数は2013年から10年間で27.8%(2,422人)減少し、北村路11ギルの韓屋16軒のうち実際に人が住んでいるのは2軒だけでした。騒音やごみ、プライバシーの侵害に疲れた住民が去っていった結果です。
そこで鍾路区は北村を特別管理地域に指定しました。ソウル市によると、北村路11ギル一帯の約3万4,000㎡がレッドゾーンで、観光客が訪問できるのは午前10時から午後5時まで。2024年11月からの啓発期間を経て、2025年3月からは違反すると過料が科されています。ソウル市は観光バス(貸切バス)の通行制限も予告しました。
💡 実用メモ:北村を歩くときのマナー
- レッドゾーン(北村路11ギル一帯)は午前10時〜午後5時のみ。早朝や夕方の写真撮影はできません。
- 門の中をのぞき込んだり、階段や塀に座って撮影したりしない ― ほとんどが実際の住宅です。
- 路地では声を落とし、ごみは持ち帰りましょう。
益善洞 ― 再開発ではなく韓屋の商店街へ
益善洞は一時、消えてしまうところでした。2004年に都市環境整備区域に指定され、韓屋を取り壊して14階建ての住商複合ビルを建てる再開発が進められたのです(イーデイリー、2018年1月報道)。しかし2010年にソウル市都市計画委員会が韓屋保全の方向性を求め、住民間の対立の末、2014年に推進委員会が解散して再開発は白紙になりました。
再開発が止まった2014年頃から、若い起業家たちが古びた韓屋を改装してカフェや食堂を開きはじめ、益善洞は数年のうちにソウルで最もにぎわう韓屋路地の商圏になりました。ソウル韓屋ポータルによると、2018年時点で飲食店・サービス業・卸小売業の店舗は330軒余りにのぼります。ソウル市は2018年に益善洞を韓屋密集地域に指定し、地区単位計画を策定しました。イーデイリーの報道によれば、この計画には大手フランチャイズの出店を防ぎ、大通り沿いの建物の高さを5階(20m)以下に抑える内容が盛り込まれています。
地元の人はいまどこに行く? ― 北村編
観光客の動線から一歩外れて、長く店を構えてきた老舗や、近所の人が出入りする場所を選びました。北村の老舗食堂は北村の老舗グルメ TOP 9に、韓屋カフェは北村・益善洞カフェ TOP 10に別途まとめているので、ここでは重ならない店を中心に紹介します。
テグ・チャムギルムチプ(대구참기름집)― 桂洞キルで50年近く油を搾る搾油所
安国駅から中央高校のほうへ延びる桂洞キル(ケドンギル)を歩いていると、看板より先に香ばしい匂いが漂ってきます。1975年に開業した搾油所で、1990年から今の店主が受け継いで営んでいます(鍾路文化財団、2023年)。ごま油やえごま油を搾り、ミスカル(穀物粉)や粉唐辛子も販売。名節(旧正月や秋夕)のたびに近所の人が油を搾りに来る店でしたが、最近は「搾油所ツアー」で訪れる外国人旅行者も増えました。ソウル市の「老舗(オレガゲ)」に指定されています。
チャマシヌントゥル(차마시는뜰)― 韓屋の中庭で味わう双和湯
三清洞の丘の上(北村路11ナギル)にある韓屋茶房です。中庭を囲む部屋に座り、双和湯(体を温める漢方茶)や生姜茶、五味子茶といった伝統茶をいただきます。観光客も多く訪れますが、静かな午後に親を連れてくる韓国人客も絶えない店です。レッドゾーン内の路地にあるので、午後5時前に立ち寄るスケジュールを組みましょう。ダイニングコードに掲載された最新情報では、火曜日が定休日です。
プクチョン・ソンマンドゥ(북촌손만두)北村店 ― 並ばずに食べられる町の餃子
北村路4ギルにある手作り餃子の店です。本店は仁寺洞にあり、ソウル各地に支店を持つ餃子ブランドの北村店。揚げ餃子、カルビ餃子、いりこだしのカルグクスといった気軽なメニューが中心なので、近くの会社員や住民がさっと一食済ませに立ち寄ります。韓屋路地の散策の前後に軽く食べるのにぴったりです。
トンニム・メドゥプ工房(동림매듭공방)― 公共韓屋で見る伝統組紐
嘉会洞の北村路12ギルにある伝統組紐(メドゥプ)の工房です。ソウル市が買い取って運営する「公共韓屋」のひとつで、1920〜30年代の都市韓屋の内部を間近で見られる数少ない場所でもあります。ソウル韓屋ポータルによると、開館は午前10時〜午後6時、月曜日と名節は休館です。組紐づくりの体験は、事前に問い合わせておくのが確実です。
桂洞キルの銭湯の話
桂洞キルの真ん中には、1969年に開業した町の銭湯中央湯(チュンアンタン)がありました。2014年に閉業したあと、2016年にアイウェアブランドのジェントルモンスターが看板やボイラー、浴槽の構造を生かしてショールームに生まれ変わらせました。地元の人の生活空間が観光客向けの店へと変わっていく北村の変化を、最もはっきり示した例でした。
地元の人はいまどこに行く? ― 益善洞・楽園洞編
益善洞の韓屋路地の中は、いまやほとんどが若い世代向けのカフェや食堂です。そのなかで韓国人が繰り返し訪れる店と、路地のすぐ外、楽園洞(ナグォンドン)・敦義洞(トニドン)で何十年も町を支えてきた店をあわせて選びました。
ウォンジョ・ナグォントッチプ(원조낙원떡집)― 益善洞の韓屋より先にあった餅屋
益善洞の韓屋団地が建てられる前から、この町にあった店です。ソウル市によると、宮中で働いていた人々が開いた餅屋に始まり、1920年頃から代々受け継がれてきました。2018年にはソウル未来遺産に指定されています。トゥトゥプトク、五色キョンダン、インジョルミが看板の餅。楽園洞の餅屋通りができたのも、この店がきっかけだといわれます。名節の前には、餅を買う人の行列が長く延びます。
チャニャンチプ(찬양집)― 60年続く海鮮カルグクス
敦化門路11ダギルの路地にあるカルグクス(手打ち麺)の店で、1965年に開業しました。貝や海鮮でとったスープに手打ちの麺を入れて出し、手作り餃子も一緒に売っています。2017〜2019年にはミシュランガイド・ソウルに掲載され、近くのカルグクス店とともにこの路地を「カルグクス横丁」にした店です。昼どきには鍾路一帯の会社員と近所のお年寄りが入り混じって席を埋めます。日曜定休。
ウォンジョ・ソムンナンチプ(원조소문난집)― 朝4時に開くウゴジヘジャンクッ
楽園商街前、水標路にあるクッパ店です。肉の代わりに味噌とウゴジ、豆腐で煮込んだヘジャンクッ(酔い覚ましスープ)一品だけを出します。グルメ専門メディア「ウィキフーディ」の報道によると、ヘジャンクッの値段は3,000ウォン。1986年の500ウォンから少しずつ上がって今に至ります。故ソン・ヘさんの行きつけとして何度もテレビで紹介されました。タプコル公園と楽園商街を行き来するお年寄りが夜明け前から訪れる、益善洞の韓屋カフェとはまったく違う鍾路の顔です。
チャンファダン(창화당)― 益善洞の韓屋路地で並ぶ餃子
益善洞の水標路28ギルにある手作り餃子の店です。餃子、トッポッキ、チョルミョンといった粉食(プンシク)メニューが中心で、週末には路地に行列ができます。大型スーパーや通販サイトで冷凍餃子を出すほど名の知れた店。行列を避けたいなら、平日の開店直後を狙いましょう。
オジュギネ(오죽이네)― 夜の集まりに鶏の辛味鍋
敦化門路11ガギルにある、タンメウンタン(鶏の辛味鍋)とナクチメウンタン(テナガダコの辛味鍋)の店です。客が増えて同じ路地に新館と3号店まで出したほど、夜の会社員の集まりの場として人気があります。鍋を食べたら、残ったスープでポックンパ(焼き飯)を作って締めるのが定番です。日曜定休。
トンベク洋菓店(동백양과점)― 開化期ムードの韓屋デザートカフェ
益善洞の水標路28ギルにある韓屋カフェで、スフレパンケーキとパフェが看板メニューです。1920〜30年代の京城の「洋菓店」を思わせるインテリアで、都市韓屋が建てられたばかりの時代の雰囲気をデザートとともに楽しめます。ブルーリボン・サーベイに2022〜2024年の3年連続で掲載されました。
🗺️ この記事で紹介した店をひと目で
| エリア | 店名 | ジャンル | ひとことポイント |
|---|---|---|---|
| 北村・桂洞 | テグ・チャムギルムチプ | 搾油所 | 1975年創業、ソウル市の老舗(オレガゲ) |
| 北村・三清洞 | チャマシヌントゥル | 韓屋茶房 | レッドゾーン内 ― 午後5時前に訪問 |
| 北村・嘉会洞 | プクチョン・ソンマンドゥ北村店 | 餃子・カルグクス | 気軽に食べられる町の一食 |
| 北村・嘉会洞 | トンニム・メドゥプ工房 | 工芸工房 | ソウル市の公共韓屋、月曜休館 |
| 楽園洞 | ウォンジョ・ナグォントッチプ | 餅屋 | 1920年頃から、ソウル未来遺産 |
| 敦義洞 | チャニャンチプ | 海鮮カルグクス | 1965年開業、日曜定休 |
| 楽園洞 | ウォンジョ・ソムンナンチプ | ウゴジヘジャンクッ | 早朝から営業、お年寄りの行きつけ |
| 益善洞 | チャンファダン | 手作り餃子 | 週末は行列 |
| 益善洞 | オジュギネ | 鶏の辛味鍋 | 夜の集まりの定番、日曜定休 |
| 益善洞 | トンベク洋菓店 | 韓屋デザートカフェ | 開化期の洋菓店がコンセプト |
💡 実用メモ:1日の回り方プラン
- 午前 ― 安国駅を出発し、桂洞キル(テグ・チャムギルムチプ)→ 嘉会洞31番地の坂道 → 三清洞のチャマシヌントゥル。レッドゾーンは午後5時前に抜けましょう。
- 昼 ― プクチョン・ソンマンドゥ、または北村の老舗グルメのどこか1軒。
- 午後 ― 歩いて15分前後で益善洞へ。韓屋路地をぐるりと回って、トンベク洋菓店でひと休み。
- 夜 ― チャニャンチプのカルグクスかオジュギネの鶏の辛味鍋。帰り道にウォンジョ・ナグォントッチプで餅をひと袋。
北村と益善洞の路地は、朝鮮の風景ではありません。植民地都市で、朝鮮人が住む場所を探していた時代の風景です。同じ形の門がずらりと並ぶ路地を歩くとき、その1軒1軒が100年前、誰かが月賦で代金を返しながら初めて手に入れた「わが家」だったことを思い浮かべてみてください。同じ路地が、少し違って見えるはずです。ソウルのほかの近代史の路地が気になるなら、貞洞(チョンドン)さんぽもあわせて歩いてみてください。
データと出典
- ソウル韓屋ポータル ― 韓屋村:北村(区画分割・住宅経営会社・保存政策の年表)
- ソウル韓屋ポータル ― 韓屋村:益善洞(鄭世権・楼洞宮・韓屋118軒・店舗330軒余り・再開発の経緯)
- ソウル市 ― 韓屋を守った建築王「鄭世権」と北村
- ソウル市メディアハブ ― 北村韓屋村の観光客訪問制限時間のご案内
- ソウル& ― 益善洞韓屋の父・鄭世権
- 韓国語版ウィキペディア ― 鄭世権(1929年『京城便覧』の引用、トゥクソムの土地)
- 京郷新聞 ― [本と人生]1920年代の京城を変えた「建築王」鄭世権(キム・ギョンミン『建築王、京城をつくる』)
- プレシアン ― 植民都市に転落した京城、人口は増えるが… · 景福宮を接収した日帝、北村と西村を踏みにじる
- イーデイリー ― 鍾路・益善洞、14年ぶりに再開発解除…韓屋地区として保存(2018年1月)
- 韓国日報 ― 16軒中、人が住む韓屋は2軒だけ…「ゴーストタウン」北村韓屋村(2023年8月)
- 鍾路文化財団 ― あの頃はこうだった、北村・桂洞キル編(テグ・チャムギルムチプ)
- ソウル市メディアハブ ― ウォンジョ・ナグォントッチプ · ウィキフーディ ― ウォンジョ・ソムンナンチプ · ウィキフーディ ― オジュギネ
- ソウル韓屋ポータル ― トンニム・メドゥプ工房 · ダイニングコード・ポルレの店舗情報(チャマシヌントゥル・プクチョン・ソンマンドゥ・チャニャンチプ・トンベク洋菓店)
- 店舗の営業時間・定休日は2026年9月時点でオンライン公開されている情報に基づいています。訪問前にNaverマップで改めてご確認ください。